カテゴリー「戦争」の記事

2008年12月31日 (水)

今年の10大ニュース

・・・を書こうと思ったけど、これを読んだら、もう私が書くことなんてないな~と思ってしまった。

bookきっこのブログ 今年の10大ニュース


「ワタクチ」とか「国民の皆さまにお支払いいたちまつ!」とか爆笑してしまったsmile

これだけスパッと、ズバッと書いてくれちゃうと気持ちいい。



いろいろ、いろいろあったけど・・・来年はしっかり漢字が読めるようになろうっとpunch

猫パンチTV 女番社長レナ 「漢字読めなくても・・・」

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2007年8月17日 (金)

【連載】私にとっての戦争と文学(第6回目)

五 文学にできること

 大岡は、『捉まるまで』のエピグラムに「わがこころのよくてころさぬにはあらず」という『歎異抄』の言葉を引用している。
 自分には崇高な気持ちがあるから殺さなかったのだ、などというような紳士気取りで作品を書くことを〈あらかじめ自分に禁止しておいた〉と見ることができる。(注10)

 しかし、後に武田の『ひかりごけ』には、「『野火』の主人公」と名指しで、「文明人ぶっている」と書かれた。(注11)

 大岡のように〈善悪の次元に泰淳は立っていなかった。戦場が極限中の極限だから、隠されていた人間性が赤裸に露出されるわけではない。戦場ではない場所でも隠された人間性は露出される。〉(注12)と川西政明氏は言う。

 確かに、戦前と戦後で日本国家における善と悪が逆転している。しかし、今後またそれが逆転し、戦前の価値基準に戻ることがあるのだろうか。

 確かに、社会の規範がすべて正しいとは思わない。しかし殺してはいけない。死んではいけない。生きているから人間なのだ。

 確かに、父の生の延長線上にいる私が、武田を裁くことはできない。しかしやはり、武田の殺人は悪だ。

 確かに、戦場であれ難破船であれ、追い詰められて錯乱状態に陥れば、人間は何をしでかすかわからない。しかしやはり、善と悪の区別はあって欲しい。

 文学は「人間性を露出させる」ことだけではなく、「よりよく生きる」ことをも模索して欲しいと願う。生きていなくては文学も価値がない。


六 参考文献

  • 注1 P223・P224、注2 P167、注4 P12、注9 P497、注11 P514、注12 P339 『武田泰淳伝』川西政明 講談社
  • 注3 P35 『身心快楽 自伝』武田泰淳 創樹社
  • 注5 P150、注6 P228 『大岡昇平論 美意識の使徒』ゆりはじめ マルジュ社
  • 注7 P116、注8 P88 『混沌から創造へ』武田泰淳 中央公論社
  • 注10 「過去精算」と21世紀の日韓関係 亀井秀雄 韓日文化交流政策諮問委員会主催シンポジウム

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2007年8月16日 (木)

【連載】私にとっての戦争と文学(第5回目)

四 大岡昇平と武田泰淳

 大岡昇平と武田泰淳は同時代の作家であり、両者とも、戦争体験をきっかけに本格的に小説を書き始めている。
 しかし、その戦争体験には大きな違いがある。そしてこの違いが、両者の行動・思考に大きな影響を及ぼしているものと思われる。

 大岡は、徴兵逃れの工作もむなしく、戦局が激しくなった四四(昭和十九)年に臨時召集され、フィリピンに送られた。
 出征までは川崎重工資材部に勤務していたため、軍部の機密資料から艦船の建造トン数の小さいことなどを知り、〈こんなことでは戦争ができるわけがない〉(注5)ことに気づいていた。

 また、当時、大岡は三五歳で妻子もあった。スタンダールに倣ってサラリーマン生活をし、〈この平常心をもって国家権力の呼び出しに応じたことが、戦争の悪を根源的に批判する視点を獲得し〉(注6)ていたのであろう。

 大岡は補充兵で、戦闘能力は期待されていない暗号兵であったが、フィリピンでは《退路が遮断され、周囲で僚友が次々に死んで行く》(P13)という戦局で、常に死と隣り合わせにいた。

 一方武田は、三七(昭和十二)年に召集を受け、中国へ派遣された時は二五歳、独身であった。当時は僧侶として家業を継いでいた。

 やはり補充兵として上海に上陸したが、主力部隊が敵部隊を駆逐し敵がいなくなった地を行くばかりで、〈戦場で敵と相まみえたことはない〉(注7)。
 むしろ内地で僧侶などをしているより、〈ずっと面白〉 く、〈嬉々として働いてい〉た。(注8)

 《「他人を殺したくない」という我々の嫌悪は、恐らく「自分が殺されたくない」という願望の倒錯にほかならない》(P31)と大岡は分析している。
 出征の時から、俘虜となり《助かった》ことを実感するまで、《常に死を控えて生きてきた》(P56)大岡は、他人の死と自らの死を全く別のものとして感じることはできなかったのであろう。

 武田は、殺人を犯した後に自らの生命の危機を感じるような状況を体験し、「自分が殺されたくない」気持ちを味わったのではないか。
 また、敗戦を迎え、〈『聖書』を通じて滅亡と審判と黙示録の世界を知り〉(注9)、異常な空間から徐々に脱するのと平行して罪の意識も芽生えていったのではないか。
 さらに、時間がたつにつれ、家庭を持ち年齢を重ねるにつれ、罪の意識が肥大していったことも想像される。私の父がそうであったように。

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2007年8月15日 (水)

【連載】私にとっての戦争と文学(第4回目)

三 武田泰淳『審判』 ―なぜ殺したのか

 『審判』では、青年「二郎」が、非道な殺人を二度行っている。
 一度目は分隊長の気まぐれな命令で中国人二人を、二度目は明確な理由もなく盲目の中国人老夫を射殺した。

 このことは、武田自身が、一九三八年五月に実際に行ったことであるらしい。(注1)

 なぜ武田は罪も害もない人を殺したのか。
 作中、《真空状態》、《鉛のように無神経な状態》(P16・P18)に陥ったと表現している。

 この殺人の後のことだが、同年九月、武田が盧州で書いた手紙に〈おそろしい鉛のような流れとなって時間が動いていく〉とある。
 この時期、マラリアにかかったり、苦手な力仕事をさせられたり、〈匪賊のような〉日常を送っていたようであり(注2)、そのような異常な空間、極限状態、錯乱状態を表しているようだ。

 しかし大岡も、もっと異常な状況、空間にいたのではないのか。

  また、十四、五歳の頃、生き物を殺すことは《臆病なくらいイヤ》であったにもかかわらず、《鉛のたま》を《気味悪い》 蛙の腹に何発も打ち込むという描写がある。(P17)

 この《鉛》に、武田特有の抑圧を感じる。

 僧侶の子に生まれた武田は早くからストイックな生き方を強いられ、生涯童貞を通した僧侶の伯父(注3)を崇拝するなど一般的な快楽を自らに禁止するあまり、逆に非道徳的・非人間的なことをやってみたいという思いが強くなったということはないだろうか。

 他の作品を読んでも、女性の美に対する肉欲こそあれ、武田の書く友人、恋人への態度には、《人類愛の如き観念的愛情》が欠落しているように感じられる。

 川西政明の調査では、武田自らが語る経歴には誤りが複数あった。川西いわく、〈「私」をいい加減に扱う〉(注4)武田は、他人を大切に扱うこともできなかったかもしれない。

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【連載】私にとっての戦争と文学(第3回目)

二 大岡昇平『捉まるまで』 ―なぜ殺さなかったのか

 『捉まるまで』は、フィリピンのミンドロ島での大岡自身の戦争体験を書いたものである。

 戦闘能力のない病兵として置き去りにされた大岡は、水を求めて一人戦場をさまよい、疲れ果てて丈の高い草むらに横たわっていた。

 そこへ不意に若い米兵が姿を現わす。  《学生の時実弾射撃で良い成績》だった大岡は、自分の存在に全く気づかず近づいてくる米兵の無用心にあきれつつ、《自然に右手が動いて銃の安全装置を外していた。》(P29)

 しかし大岡は米兵を撃たなかった。他人を殺したくないという嫌悪は、《平和時の感覚であり、私がこの時既に兵士でなかったことを示す》(P32)と自己分析しているが、大岡が兵士だからこそ、撃たなかったのではないか。

 衰弱した自分と三人の米兵という圧倒的に不利な状況下で発砲すれば、米兵のうち一人は仕留められたとしても、残りの米兵に撃ち殺される可能性は高い。
 《果たしてこの優勢な相手(私の認知しただけでも一対三である)を直ちに射とうとしたであろうか》という疑いは間違いではないだろう。

 さらに近づいてくる米兵に、《私に害を与えると私の知っている対象に対する嫌悪と危惧の混ざった不快感》(P37)を感じた大岡は、偶然の銃声に救われることなく米兵が自分の姿を認めるや否や、反射的に発砲し、そしてその場で戦死していたかもしれない。

 しかし、《個人的理由によって彼を愛したために、射ちたくないと感じたこと》(P37)は、私も信じる。

 私も《親となって以来》、子供を見ると息子たちを想い、また《ある種の感動》(P36)も感じるからだ。

 大岡の米兵に対する《愛》はその描写から見て取れる。《薔薇色の頬》(P35)に《その顔にふさわしいテノール》の声、そして言葉の《語尾を呑み込むように子供っぽく口角を動かす》仕草は、なぜかデイビッド・ベッカム(イギリスのプロサッカー選手。アイドル並みの容姿を持つ)を想起させるほど美しく愛らしい。

 これらの描写から、「殺さなかった」理由は人類愛からではないが、大岡が《人類愛の如き観念的愛情》(P31)を持ち合わせている人間であることがうかがえる。

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2007年8月14日 (火)

【連載】私にとっての戦争と文学(第2回目)

一 私の「大東亜戦争」

 両親はよく小学生の私に「大東亜戦争」の話をした。

 母は昭和八年生まれ。十三人兄弟で、女の子は兵士になれないから「要らん子」と言われて育ったそうだ。小学生の時は毎日のように空襲警報に逃げまどい、おかげで読み書き計算もままならない。

 父は大正十二年生まれ。法政大学在学中に学徒動員で戦地へ向かい、お国のため、天皇陛下のため戦ったので、生きて帰ったことが恥ずかしいと言っていた。

 大砲を撃って片耳が聞こえなくなったこと、よく上官に殴られたこと、撃たれた父を担架で運ぶ仲間が谷底へ振り落とそうとしたことなど、戦地での話をする父は楽しげで、誇らしげだった。
 敵は女・子供も残らず殺したという。ハンマーで頭を叩き割り、天井まで血しぶきが上がったと私に話した時の父の表情は、さすがに楽しそうではなかった。

 父は晩年、夜中にうなされるようになった。自分が殺した人たちの夢を見ると言っていた。

 父と母の生の延長線上に今の私がいる。
 そして、私の息子たちの存在もまた同様である。

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【連載】私にとっての戦争と文学(第1回目)

 広島の原爆記念日、長崎の原爆記念日、そして終戦記念日がやってくる。

 私なりに考えた、稚拙な戦争観をここで公開してしまおうと思う。
 ご批判は甘んじて受けます。

 大学の「日本文学作品・作家研究」という科目で提出したレポートを、何回かに分けて掲載します。

 私にとっての戦争と文学

 私は戦争を知らない。
 だが、「大東亜戦争」での多くの死の延長線上に生きている自覚がある。

 以下、私なりの戦争体験で、大岡昇平の『捉まるまで』と武田泰淳の『審判』を比較し、論じたい。

 なお、文中の《 》は作品中からの引用であり、ページ数は『俘虜記』は新潮社版(平成十七年十月十五日五八刷)、『審判』は『武田泰淳全集 第二巻』筑摩書房(昭和四六年六月十八日第一刷)のものを付した。その他の文献からの引用は〈 〉で囲い、末尾に出典を示した。

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2007年7月18日 (水)

地震と戦争

 被災地の様子を戦争に例えているのを何度か耳にしました。
 「戦争が起こったみたい」
 「まるで野戦病院だ」

 戦争をなんらかの形で経験された方ならではの表現なのでしょう。
 確かに、ほとんどの人にとって戦争やテロは対岸の火、という平和な日本社会において、地震に遭うことで急に死を意識させられるかもしれません。

 とはいえ、毎年3万人以上が自殺し、親がわが子を殺し、子どもが親を殺して切り刻む昨今。

 五木寛之氏は、大塚初重氏との対談集「弱き者の生き方」で、「人身受け難し、今すでに受く」という言葉を引き、蚊でもなく蝿でもなく人間に生まれたことは、それだけでラッキーなのだ。だから死んではいけない、殺してはいけない、ということを書いています。

 戦争中のように、常に死の恐怖におびえながら生きていた時代とは異なり、今の人は、簡単に死んだり殺したりする。それは私の両親もよく言っていました。

 ただ、自殺する人は、精神状態が普通ではなくなっている、通常通りの判断力がなくなっているのだとも思います。「どんなことも死ぬよりマシ」という判断ができない状態。死ぬよりも怖いことがある状態。
 以前、精神科医がそのように分析しているのを新聞で読みました。そういう前兆、サインを周囲が見逃してはいけない、と。

 死ぬことは怖いこと。
 人間は、自分が生きていることを自覚し始めた時から、死の恐怖も意識し始めるのでしょう。
 塾の生徒(小学生)の課題図書である「西の魔女が死んだ」(梨木 香歩)は、少女が死に対する恐怖を克服していく物語であるとも感じられます。
 「夏の庭―The Friends」では、少年たちの「死という得体の知れないものへの恐怖」が、「大切な人の死、という悲しいこと」に転換していく様子が描かれています。

 でも、精神状態だけではなく、五木氏も指摘されているように「想像力の欠如」ということも考えられるのではないかと思います。
 死んだら、あるいは殺したら、自分は、相手はどうなるのか、残されたものがどんな思いをするのか、という。

 この「想像力の欠如」は致命的で、天災である地震でも、自分や人の命を奪うことにもつながります。
 地震で死なないために、人を殺さないために、まずは建物を耐震化し、家具の固定をしてほしいものです。命はお金にかえられないですから。

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2007年7月16日 (月)

五木寛之という作家の言葉

 引き続き、五木寛之&大塚初重氏の「弱き者の生き方 日本人再生の希望を掘る」という講演会の話を書きたいと思います。

 思えば、作家の講演を聞くのは初めてかもしれません。
 私が恋焦がれている美しき文学者のお誘いで、こんな機会を得ることができました(みしょこ姫、ありがとー)。

 やはり、言葉が美しい。
 文法的な間違いがないとかそういうことではなく、ちょっとした言葉遣いが、粋というか、文学的で、美しさや奥深さを感じずにはいられない。

 五木氏は「暗愁(あんしゅう)」という言葉について、丁寧に解説されていました。

 「暗愁」は、明治期に広く流行した言葉だけど、辞書で調べると、たった1行程度の味も素っ気もない解説しか載っていないとのこと。

 確かに、私の懐刀、SHARPの「Papyrus」PW-AT750の「大辞林」で調べると、「暗い影を帯びた愁い」としか載っていません。

 五木氏いわく、今で言うと「鬱」。

 とはいえ、今時の「鬱」は明るく、「エステの帰りに心療内科」みたいな状況も指摘されていましたが。
 実際はうつ病で苦しんでいる方も多くいらっしゃいます。ただ、悩みや苦しみの内容が当時と違って、「今日、食べるものがない。何日も食べていない」とか、「1秒後には死ぬかもしれない」とか、「外国人兵士に連れ去られて、一晩中おもちゃにされて、翌朝、ボロ雑巾のようになって仲間の元へ戻されて、いたたまれなくて自殺するとか、日本に帰ってから麻酔ナシで中絶手術を受ける」とかの心配はあまりないですからね。

 話がそれました。氏が言いたかったのはそこではなく、現代社会はプラス思考や明るさばかり求め、それを善とするけれど、そうじゃないんじゃないか、ということです。

 まっすぐで、強くて、丈夫な固い枝は折れやすい。雪が降り積もってバキバキと折れている。人間で言うと自殺したりする。

 つらいときは背中を丸めて、何度も何度もため息をつけばいいじゃないか。泣けばいいじゃないか。
 そのうち、「ま、しょうがないさ」と諦めもついて・・・そうして柳や竹のように、しなやかに生きていこう、と。いつもいつもがんばることはないよ、と。


 私が尊敬する人もよく歌う「花」。「♪泣きなさい、笑いなさい」という歌にも言及されていました。

 つづく

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2007年7月15日 (日)

五木寛之&大塚初重「弱き者の生き方 日本人再生の希望を掘る」

 台風の脅威をかいくぐり、九段会館の講演会に行ってきました。

 五木寛之さん、昭和7年生まれ。母とほぼ同じ年。
 大塚初重さん、大正15年生まれ。父より3つ年下。

 お二人の戦争体験談は、私が小さい頃から聞かされてきたものと同じ。私の父は数年前に亡くなっているので、懐かしい思いで聞いていました。

 父はよく言っていました。「早メシ、早グ○」
 お前みたいに食うのが遅くて身支度も何もかものんびりしている奴は、戦争では真っ先に死ぬ!と。・・・すなわち、私は嫡子として育てられていて、戦争が起こっても絶対に勝ち進む、生き残るキャラを期待されていたわけです。

 しかし、もっとも似ていたのは、戦地に行って闘った人は比較的明るく、時に得意げに戦争を語り、内地に残った人、女子どもは多くを語らない・・・というところ。

 どうも、大塚氏に比べて五木氏の口が重い。
 そういえば、父はよく私に戦争の話をしたけれど、母は「貧乏だった、食べ物もなかった」というような一般的な話ししかせず、具体的なことはあまり語らない。

 「弱き者の生き方 日本人再生の希望を掘る」の中でも、血を売った話が載っているけれど、私がまだ小さい時、母が言ったことを思い出した。

 「この辺にね、血を買ってくれるところがあったのよ。
 お金がない人は、今で言う献血みたいに自分の血を売ってお金をもらっていたのよ。」

 ・・・その頃、果たして母はお金があったのだろうか?

 五木氏はこう書いている。

 「私はやっぱり苦労しないで育った人間のよさを感じることが時々あるんです。」
 「優しい気持ちというのは、やはり苦労した人間にはもちえないものです。ものごとの裏を考えたりとかしないですから。幸せだと思いますね。」

 私もそう思うのです。
 苦労した人間ほど人に優しくなれる・・・なんていうのは、苦労をしていない人が作り出した幻想だと。

 しばらく、戦争について書いてみようかな、と思ってます。

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